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  • 執筆者の写真Bucho

今更ながら自己紹介【前編】



こんにちは、buchoです。


10月も早いもので残り10日。今年も残すは11月と12月の2ヶ月のみ。おせち料理の販売受付開始のテレビCMをみたり、クリスマスイベントに関する報道をみたりと、巷は年末年始に向けてまっしぐらです。今年一年がいい形で締められますよう、頑張りたいものですね。


さて、今年度開始と同時に始めたこのblogも、今回分で139回目の記事となります。不動産売却や購入について、私個人の本音を書いたり、営業日報的な内容だったりと、記事の内容は様々ですが、よくよく振り返ってみると、私(bucho)の自己紹介をしていなかったことに今更ながら気付きました(最下部の「この記事を書いた人」に概略はありますが…)。厳密にいうと、記事を読んでくれている人からの指摘により気付きました 笑


という訳で、今更ではありますが、自己紹介をさせていただきます 笑


株式会社メイヴス執行役員営業部長の津田 孝幸(つだ たかゆき)と申します。1981年5月(昭和56年・ギリギリ旧耐震)生まれの41歳。出身は、四国の愛媛県松山市(松山市の中心地である高島屋まで徒歩3,4分のところに実家がありますので割とシティボーイ)。高校を卒業する18歳まで松山で過ごし、2000年4月、大学進学を機に福岡にやってまいりました。


私が福岡にやってきた当時、福岡市の人口は約135万人でした。2022年10月1日時点の福岡市の人口は約163万人。人口減少のこの時代に、約22年間で28万人も増えていることを考えると、福岡はほんとすごい都市ですね。また、今でこそ常勝軍団と呼ばれるようになったソフトバンク・ホークス(当時はダイエー・ホークス)も、私が福岡にやってくる前年の1999年に初のリーグ優勝→日本シリーズ制覇を果たしたときで、巨人戦しかテレビ中継されていなかった四国の人間からすると、当時のダイエーのメンバーなんてほとんど知りませんでした(ペドラザ懐かしー)。


そもそも私が福岡にやってきたのは、高校3年生のときに付き合っていた彼女が、福岡の専門学校に進学することを決めていたので、軽い気持ちで福岡大学の推薦入試を受けたことがきっかけです。その推薦入試に合格したため、そのまま進学という流れ。当時は、大阪とか京都の大学に行きたいと思っていたので、そのときの彼女と付き合っていなかったら、福岡の地を踏むことはなかったと思います(愛媛県には当時、国立の愛媛大学と私立の松山大学しかなかったので、私大組で松山大学より上を目指すなら、県外に出るしかないんス)。そう考えると、人生、どこに分岐点があるかわからないものですね。


中学、高校と部活はバレーボールをしていました。中学時代は、四国大会準優勝しましたので、それなりの強豪校でした(二つ上の代と一つ下の代は、全国大会出場)。当時、毎年のように全国に行く高校から推薦の話もありましたが、工業高校であったため、親が難色を示し、一般入試で普通科の高校に進学しました。中学時代は、ほとんどバレーしかしていなかったため、個人的には、強い高校に行って続けたいと思っていましたが、今思えば、あのとき、親が反対してくれたことには感謝しています。上背のない私が、その高校で仮にレギュラーになれたとしても、たぶんバレーはそこで終わりだったんだろうなと思うからです。普通科の高校に行ったことで、その先の選択肢が広がったことは言うまでもありません。


ちなみに、その進学先の高校は、言葉が悪いですがバレー弱小校。そこでバレーを続けるつもりはなかったんですが、たまたま校内を歩いているときに、中学時代にそれなりに強かった学校のキャプテンだった人とすれ違い、その人がバレー部に入ると言っていたので、それなら多少は強くなるかなーと思って、入部することにしました(ほんとは野球部に入りたかった。ちなみに私は松坂世代の一つ下)。


当時を振り返ると、扱いづらい後輩だっただろうなーと自分でも思います。失礼を承知の上で、弱小校らしい技術とパフォーマンス、モチベーション…。それらにイライラしていたことを覚えています。活躍するのは先輩方ではなくて、私ともう一人の同級生の二人だから、天狗にもなっていたと思います。あー、若気の至り 笑 でもほんと、いろんなことを教えてくれたいい先輩方でした。


そんな先輩方が引退され、私たちの時代になったときは、運よく一つ下の代も中学強豪校の後輩が数人入部したため、当時はその高校史上最高成績だった県大会ベスト16まで進出することができました(ちなみにこの高校、冬季は17時完全下校で部活ができるのは約1時間…)。負けん気の強かった私は、前述した毎年全国に出場する工業高校に進学した中学時代の強豪校の同級生に一泡吹かせてやることをモチベーションにしていましたが、結局一度も対戦することはなく終わりました。


唯一、そのチャンスがあったのが、私が高校2年生のときの新人戦県大会。一回戦で丹原(高校野球が好きな人なら知っているかも…元中日のエース野口茂樹の出身校)という若干格上の高校と当たりました。そこに勝てば、愛媛県最強の高校と試合ができる状況。


今でこそバレーは25点制ですが、当時は15点のサーブ権制(サーブを打つ側の攻撃が成功しないと点が入らない制度)。2セット勝利で試合終了の第1セットを15-13で先取。第2セットも14-11でリードのマッチポイント。中学時代はアタッカーだった私は高校ではセッターをしていました(たびたび失礼ながら…一つ上の先輩たちが弱かったので2セッターシステムを敷き、アタッカーとセッターも両方やってましたが、3年生のときはセッターのみ)。チャンスボールが返ってきて、あとは私がトスを上げてアタッカーが決めれば試合終了!の状況でした。たぶんこのとき、私の頭のなかは「勝った!」となったんだろうなー。もっと言えば「これで愛媛県最強の高校と試合ができる!中学時代の強豪校の同級生に一泡吹かせてやる!」という思いが先走ったんだろうな(言い訳)。私がレフトに上げたトスがネットに近くなったことで、相手にブロックされて攻撃失敗。そこから連続してポイントを失い、第2セットを14-16で落としました。第3セットは…、よく覚えていません。結果、0-15で失い、セットカウント1-2で敗れました。それにしても、0点とは…。勝利目前だっただけに、集中力が切れてしまったんでしょうね。


よくある「人生のどこかの場面に戻れるとしたらどこに戻る?」みたいな質問。私は、特にどこかに戻りたいとは思わないんですが、何か言わないといけないとすれば、このときのトスを上げる前に戻りたいかな。そう思うくらい、当時は悔しかったことを覚えています。


あー、バレーの話をここまで深掘りするつもりはなかったんですが、書き始めるとこうなってしまいました 笑 で、なんの話、してましたっけ?


あ、そうそう。大学進学を機に福岡にやってきた私。そのきっかけは当時の彼女。その彼女とは3年生で同じクラスになり、上述のバレー部を引退した後の体育祭で仲良くなり、付き合うことになりました。たぶん、9月の終わりくらいから付き合い始めたと思うんですが、そのときから、福岡の専門学校に行くと言っていたので、当時ウブ(死語!?)だった私は、どうせなら一緒に福岡に行きたいと思い、福岡大学の推薦を受けることにしました。ほんと、青春時代を絵に描いたようなきっかけ 笑 その彼女とは、大学2年生のときにお別れしましたが、たまたまとは言え、福岡行きのきっかけを作ってくれたことには、今でも感謝しています。


余談ですが、人生で三度あると言われるモテ期。私のそれは、この時代。バレー部キャプテン。体育祭グループ長。真っ当な高校生からしたら高いステータスですよね 笑 当時の彼女もこのモテ期にできました 笑


余談はさておき、それから22年間、ずっと九州にいます。そして、大学時代…。大学って、勉強しなくても単位取れる、卒業できると思っていたら、全然そんなことなくて、卒業までに128単位取らないといけないのに3年終了時点で85。残り43。1~3年生までは年間42単位がマックスなんですが、4年生のみ年間48単位がマックスだったことに救われて無事4年で卒業。でも、最後の最後まで勉強していました。そんな状況だから、まともに就職活動ができる訳もなく、かつ、当時は就職氷河期。


そんなこんなで、バイト先で出会った大学の同級生と付き合っていた4年生の夏、その彼女に連れられて初めて行った合同企業説明会で、とある一社の担当者がおもしろくて、その後の面接に進み、内定をもらいました。だから、1分の1で内定。優秀!笑 冗談はさておき、大学でまともに単位が取れていたら、もう少しマシな就職活動をしていたかと思うと、ここも人生の分岐点かもしれませんね。


書いていたら長くなり過ぎたので、とりあえず今日はこの辺でやめといて、この続き「自己紹介~社会人編~」は明日、また書きます。需要ないかな 笑 


では、明日までサヨウナラ。



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